1982年にオープンした雑貨店「セタガヤママ」を拠点として、子育て中の女性たちが試みた“生活の実験”を紹介する展覧会を開催しました。会場では当時のミニコミや写真など、およそ40年分の資料を展示。多岐にわたる活動とママたちの冒険をたどったこの展覧会の内容を、関係者のエッセイも交えながらダイジェストでお伝えします。
- 会期:
- 2023年1月31日(火)~4月23日(日)
- 時間:
- 9:00~21:00 祝日を除く月曜休み
- 会場:
- 生活工房ギャラリー
「セタガヤママ」って
どんなところだろう?
ただのお店じゃ
なさそうだね!
01
「子どもザウルス」から始まった集いの場
1979年春、用賀にあるマンションの一室で、平野公子が家庭文庫「子どもザウルス」を始めました。近隣の子どもたちへの貸本や読み聞かせの場として自宅を開放したものです。
私が世田谷のマンションに越してきて、最初に悩んだのが、6歳と3歳の二人の子供たちにどうやって近隣の子供と遊ばせることができるのか、ということでした。1979年のことです。
そこで始めたのが我が家にたくさんある絵本を見に来てもらう、借りに来てもらう、好きなだけその時間は遊んでいってもらう日を作りました。「子どもザウルス」の始まりです。その日は、ドアの取手に「誰でもどうぞお入りください」と書かれた木彫りの札をかけて待ちました。学校、幼稚園帰りの友達がより、同じマンションの子供たちが面白がってバタバタと入ってくる。その日の我が家は子供たちに出すおやつの匂いと子供の出すひなたの匂いが充満していました。
「怪獣みたいな子ども」に由来するこの文庫には、多いときで50人もの子どもが出入りしたそうです。展示した写真にも、大勢の子どもたちが紙芝居らしきお話に引き込まれている様子が映し出されています。
そのうち熱心に来ていただいていたママのおひとり大橋正子さんと私は、暮らしのこと、絵本や、物語、遊び歌のことなどじっくり話し込むようになりました。ただこうして集まっているのではなくて、もう少し動的な活動にしたいねと話し合い、二人は友人の家の広間を月に一度お借りして、時間を決めて集まった、30-50人の子供の前で、読み聞かせ、語り、紙芝居、お面劇などを始めたのです。それが「あめの会」の始まりです。
参加費100円を払うと飴をもらえたことからその名がついた「あめの会」。月1回のペースで開催されました。活動場所は「子どもザウルス」だけでなく、メンバーの個人宅、桜丘にあった三角広場、ボランティアセンターや婦人会館、開設されたばかりの「羽根木プレーパーク」にまで広がっていきます。
さまざまな市民イベントに参加したほか、三角広場では「女と子どもの祭り」も複数回開催。「庭の芝生の中に生えてきてしまった邪魔な朝顔の苗を抜きとって、小鉢に植え替え、一鉢50円で売っていた」という、子どものユニークな商いもエピソードとして残っています。平野は「子どもたちの気軽さを見習って、私たちも私たちに見合った商売を考え」はじめたと言い、こうして「セタガヤママ」へとつながる構想がはじまったのです。
「子どもザウルス」のお知らせは、ほとんどが1977年に発売された家庭用の孔版印刷機「プリントゴッコ」で印刷されました。「ハガキに手書きするには、数が多すぎるし、印刷屋に出すほどのこともないし、町のコピー屋のでは紙が薄すぎるし、ガリ版刷りでは色気がない」※という理由から選ばれたそうです。デザインと印刷は、いずれも平野の夫でグラフィックデザイナーの平野甲賀が手がけています。「あめの会」のお知らせも平野甲賀がデザインしていますが、残念ながら実物は見つかっていません。
※出典:平野甲賀「だれでもできるプリントゴッコ」『水牛通信』1980年10月号
「あめの会」は「町の教室」という名の大人向け学習会などを1980年代後半まで断続的に開催。劇団「68/71黒色テント」と共同で演劇ワークショップなども実施しています。しかし活動の重心は、徐々に『あめの会通信』の発行へと移っていきました。
People
1945年東京神田生まれ。メディア・プロデューサー。20代の頃から演劇、出版、ライブなどの裏方として働く。2005年から13年まで、神楽坂で小劇場シアターイワトを企画運営。2021年に他界した夫であるグラフィックデザイナー平野甲賀の画文集『平野甲賀と 2』を、22年4月にhoro booksより刊行。
- カワルン
- 子どもたちの居場所ができたんだね
- クラシー
- イベントも楽しみだっただろうね