コツ……コツ……。磨いたエナメルのつま先が、切り替わったタイルを跨ぐ。
ここは田園都市線・三軒茶屋駅。
本業のライターではなく《探偵》として呼び出されたわたしは、壁のサインに導かれるまま、ほの白い地下道を抜け、円形にくりぬかれた空間に押し出される。ちりりと空気が変わったことがわかる。
こんなとき、探偵ならばどう振る舞うんだろう、ボギー?
三十路を越えても古着のデニムしかそぐわない、文化系女子の吹き溜まりのようなわたしは、なんとか名優の横顔を思い出す。
そしておぼつかない指でハットを押さえ、目の前のタワーを高く仰ぐ。
鈍った雲が、世田谷の空を覆っている。視線を落とし、タワーの名前を確かめる。「キャロットタワー」。
……間違いない。《依頼人》は、ここにいる。
わたしは長いエスカレーターを乗り継ぎながら心を整え、依頼人の言葉を思い出す。
「アクションすることで人生なんて変わらなくてもいい。
だけど、誰しも、通してコツコツ重ねた『もの』から、何かを発見できることはあるでしょう。
なんだこれ? と惹かれた『もの』と自分の間で、新しい関係性を結ぶこと。僕はそれを、『みっける』ことだと思ってる」
「今回は世田谷にゆかりのある方たちと美術家の僕たち……つまり北川貴好、青山悟、キュンチョメ、タノタイガが関わり、
写真を用い、それぞれの1年間のなかで、何かを『みっける』旅に出る。想像してみてほしいんです。
人生が80年だとしたら、1年間は1%以上になるんですよ」
依頼人の美術家・北川貴好は、のんびりと手のひらで顎を撫でながら、
けれどもしっかりと確信をもった声色で、何度でも丁寧に、説明をした。
「それだけのことを、僕たちはする」と結ばれた彼の言葉にわたしは好感を持った。だから、ゆっくりと問い直した。
「365日の『みっける』旅。それは素敵だし、それは美術なのだと思います。
しかし北川さん、わたしはただの、ライターです。地を這うしみったれたライターが、美術に何をできるのでしょう」
北川は小さく微笑んだ。
「モリタさん。おそらく、あなたはそこまで愚かじゃない。
僕はここまで、今回の美術が何を目的としているのか、すでにお話しをしました。
しかも今、あなたの唇だってきちんと動いたじゃありませんか」
わたしは口元を少し触り、予感をそのまま言葉に変えた。
「『みっける』――ですか。つまり北川さん、あなたはこうおっしゃりたい。
あなたたちアーティストや世田谷のみなさんが365日を『みっける』のと同じように、
ライターのわたしが、この美術になにかを『みっける』ことを期待する、と。そういうわけなんですね」
「モリタさん。僕は、ほかならぬライターのあなただからこそ、依頼する。
この美術をライターとして『みっける』ための調査。
ライターとしての、調査を……。そう、今日からあなたの役割は、『みっける探偵』だ」
みっける探偵! わたしはにっこりと笑い、うなずいた。
それはライターとしての会釈ではなく、探偵としてのイエスであった。
北川はくりくりとした眼をぱっと開き、視線を釘づけるように腕を上げ、耳のあたりで指を鳴らした。
すると背後から音もなく、艶のあるスーツを着こなす美しい秘書が近づいた。
甘い、ジャスミンの香りが鼻先をかすめる。
ふと逸らされた気持ちを取り戻すと、目の前にはすでに、漢字と数字の並んだちいさな紙片が差し出されていた。
わたしは胸元を少し探り、トンボのボールペンを取り出した。
……いや、これは100均のふわふわしたボールペンなんかじゃない。
今日からそれは、「名探偵の亡父が事務所に遺した、ひとつきりの持ち物」だ。
こうして美術家の北川とライターのわたしは、思いもよらぬ「探偵契約」を結んだのである。
◆
地下道を抜け、庭を渡り、キャロットタワーの内側へと吸い込まれていく。
蛇のようにくねるエスカレーターを乗り継いで、とあるフロアのガラス戸の中に誘われた。
「生活工房」と示された看板の方角に階段を昇ると、その先にはぽうっと広がる空間があった。
足音をしのび、カメラを構え、イベント名の明記されたおおぶりのワークショップルームに踏み入れる。
2017年、1月14日、午後。
『みっける365日』初回、「書き初め」。
4つの大きな作業机を囲むようにして、二十余名の男女が談笑している。自己紹介をしているようだ。
部屋に広がる和やかなさざめきを調査すると、
参加者が互いのリラックスを踏み越えないよう配慮しあう、適切な距離感といったものが感じられる。
無理もない。
昨年末の説明会を経て、願書を提出し、志望した美術家ごとに各員割り振られる「ゼミ」ごとの初顔合わせ……つまり、入学式なのだから。
この日の重要な目標は、
「ゼミごとのテーマを決めること」「参加者それぞれの個人テーマを『書き初め』にして提出すること」。
それぞれの机にはひと組ずつ美術家が座して、参加者の声に耳を傾けている。
目線を揃えて笑いあったり、冷静な指摘と聞き取りを重ねていたり、熱を帯びていたり、横の連帯を見つめていたり。
それぞれの歴史と今を注ぐ指導やアプローチに取り組む、美術家たちの顔が見える。
わたしは心のなかの虫眼鏡を取り出していく。
青山悟はこう語る。
「誤解されがちだけれど、本当は美術には正解が『ある』。
正解のない世界も存在するのだけれど、それはかなりハイレベルな場面なんですよ」
キュンチョメ両氏はこう問いかける。
「あなたの信じる『正常』ってそもそも、なんでしょうか。
正常から逸脱を切り捨てることで終わりにしちゃいけないと思うんです。
たとえば病に取り組むのなら、治すだけが選択肢じゃない。治さずに、逸脱というズレを楽しむこと。
ズレを拡大すること。『診察』ではなく、『深察』すること――。そんなやり方もある。
あなただからこその目線を、大切にしてほしいんです」
「今日は入学式ですから」とフォーマルな三つ揃いに身を包んだタノタイガ氏の座するテーブルからは、
終始なごやかな笑い声があがっている。
小さなお子さんをゼミの仲間と受け入れられた空間である。
タノ氏は語る。
「日常性や自分の行動パターンについて、改めて考え直すこと。
少しずつ派生させること、ほんのちょっと違うルートを選ぶこと。
これまでと違う1年間を作っていきましょう」
北川貴好の机では、ゼミ生同士の熱意の交換が活発だ。
穏やかな笑みとともに適切にうなずいている北川の向こうから、自由な発言が聞こえる。
たとえば、自分の一軒家を建てるために建築を学んだけれど、なかなかうまくいかせるのは難しいですね、と話すゼミ生には憧憬の声が集まっている。
それぞれ違う熱意に熱意をかさねあわせ、ゼミとしての空気が醸成されていくことがわかる。
こうして話し合いのまとまったゼミごとに譲り合い、部屋の中央に大きく広げたマットに、半紙がはらりと置かれていく。
エプロンを選び、墨汁と筆で文字をことばをしたためるゼミ生の視線は真剣だ。
書きあがったものはゼミごとに、壁の自由な場所にどんどん貼り付けられる。
書かれた文言こそ個々人のテーマや決意であるはずなのに、
貼られたゼミごとの空気感をとりこんだものになっているのも、ワークショップならではの姿だろうか。
最後に美術家たちのひとことがあり、
次回開催までに各自が成すこと――つまり365日を写真撮影とともに「みっける」こと――を確認した。
集合写真で見る笑顔は、会開始ごろの緊張をほどよく溶かしたものだった。
しかしこの日はまだ、顔合わせ。365日をともづれとする、写真そのものを俎上にあげていないのだという未知へのわくわくが伝わってくる。
ここから1年。北川貴好が提唱・実践する「写真の高速スライドショー化」を含んだ展覧会までに、ゼミ生たちはどんな表情を見せてくれるのだろうか。
美術家たちはどのような深化を見せるのだろうか。
わたしは「探偵」としての調査を重ねながら、その熱量の塊に、しだいに対象との距離を忘れそうになる自分に、汗をかいた。
みっける探偵、FILE01。
この日モリタがみっけたのは、レイヤーのちがう美術家たちの熱に吞まれ、
それでも言葉を覆いかぶせようとする、ちぐはぐな取り組みをもつおのれであった。
365日は遠くて、近い。
わたしは心のなかの虫眼鏡をシルクに包むと、そっと足音を忍ばせて、エナメルのつま先をゆがませて、曇り空の世田谷を発った。
To be continued……
・このお話は実話を基にしたフィクションです。