Report

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「続・セタガヤママ」展
レポート

生活を軸に展開した、
小さなメディア活動をたどる

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「セタガヤママ」オープン!

1982年12月、経堂駅南口の商店街を抜けた住宅街に「あめの会」の大橋正子が雑貨店「セタガヤママ」をオープンしました。ピンクと黄色に塗られた窓は建築家の石山修武が、ロゴは平野甲賀が担当。
立ち上げに関わった平野公子は1962年のヒット曲『ルイジアナ・ママ』にちなんだ店名を発案しました。

家の裏にあった叔父のプレハブ小屋を片付けて、母が店を始めたのは私が5歳の時だった。初めは植物由来の洗剤や石鹸、草木染のTシャツやモンペなんかを売っていたようだ。
そのうち無農薬の野菜や調味料、自家製のクッキーが店に並んだ。私が小学生になる頃にはミニFMラジオを始め、店に来た人にインタビューして、会話をそのまま放送したり、私や友達に学校でのできごとをしゃべらせてみたりしていた。

関口千穂(大橋正子・次女)

セタガヤママの外観を伝える展示写真
セタガヤママの外観を伝える展示写真
FM放送のマイクを持つ大橋さん
セタガヤママ放送局でマイクを持つ大橋さん

1983年には『ゲンイチロウのぬりえ』がセタガヤママから出版されます。デザインは平野甲賀、イラストレーションは絵本作家の柳生弦一郎によるもの。すべてシルクスクリーンで印刷され、定価は700円でした。大胆に塗ってもらえるような「ぬりかた」も書かれています。展覧会場では、誰でもこの「ぬりえ」が体験でき、できあがったものは貼れるようにしました。

展示会場に設けたぬりえコーナー
展覧会場に設けたぬりえコーナー

大橋は1985年にログハウスを購入し、建て増しを行います。その際、ミニFMの送信機が雨ざらしになり、放送は終了。同年11月、セタガヤママは貸本や雑貨販売を継続しつつ、玄米定食が看板メニューの自然食レストランとして再オープンしました。その後2007年に大橋が逝去し、翌2008年末に惜しまれながら閉店するまでの25年間、多くの人に愛されました。

住宅街のど真ん中にあったセタママのお客さんは、どうやってたどり着いたのか不思議なほど多種多様。奥さん、学生、教師、ファッション雑誌の編集長、大手食品メーカーの社長、大学教授、画家、あんまさん、占い師、整体師、弁護士、大工、ダンサー、八百屋にパン屋……。年齢も性別も様々な常連さんたちは皆、母とのおしゃべりが目当てで店に通っていた。家の人に話したくない話をしに来る学生、仕事や恋の相談にくるおじさんやおばさん、映画や本の話をしにくる若者、子供や夫の話を聞いてほしい若いお母さんたち。みんな母と話をしたくて、キッチン前のカウンター席はいつも順番待ちだった。

関口千穂

玄米定食が、コーヒーが、おしゃべりが、母の選んだ音楽や商品がお客さんを集め、そうやって集まった人たちがセタママを作っていた。それは本当に面白かった。毎日高校から帰ってくると、のぞかないではいられないくらい。
誰だって、いつでも、面白いと思ったことを始めたらいい。続くかとか、うまくいくかとか、そんなことを考える必要はない。立派じゃなくてもいいし、儲けても儲からなくてもどちらでもいい。
ただ、本気で面白がれることをすればいい。あの頃の元気な女の人たちのように。

熊野亜紀(大橋正子・長女)

一度、なぜ店をやろうと思ったの? と私が尋ねたとき、母は答えた。「普通の主婦が主婦のするようなことをして店ができるのか、おもしろそうだから実験してるの」と。おもしろそうな実験は、変化しながら25年続いた。

関口千穂

レストラン営業の写真
レストラン営業の頃の写真

People

関口千穂(せきぐち・ちほ)

1977年東京都世田谷区生まれ。大橋正子の次女。ドライフラワーショップ「hinihini」店主。

熊野亜紀(くまの・あき)

1971年東京都世田谷区生まれ、大田区在住。大橋正子の長女。多摩川近くの小さな町で放課後の子どもたちに料理を教えている。人を笑わせることが得意な3男児の母。

カワルン
おとなの居場所にもなったんだね
クラシー
いくつになっても実験って
わくわくするよね!