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坪井 正五郎(つぼい しょうごろう)
蒐集家のネットワークをつくった人類学者
人物相関図の左下には「玩具」と記されていて、その緩やかな関連エリアの中に「坪井正五郎」という名前があります。日本各地で地域の産物や紙、木など身近なものでつくられてきた伝統的な玩具や人形は、その土地ならではの風習や信仰などを反映した味わい深いものとして、民藝運動より随分早くから注目され、研究や収集が進んでいました。そうした流れのひとつとして、古器物について語り合う同好会「集古会」があり、その中心人物が坪井正五郎でした。
坪井は日本で最初の人類学者として、日本における考古学・人類学の普及と確立に貢献した人物です。幅広いテーマを対象に研究を行い、趣味人として同好との交流を盛んに行い、狂歌も詠むという、好奇心と奇想に溢れる多才な姿が伝えられています。

集古会はもともと坪井が立ち上げた東京人類学会から派生してできたものでした。「人類学会では堅過ぎるから、少しくだけた集をしやうといふので、当時の若手を発起人にして」「楽みの中に存分各自の意見を語る一種の遊びを兼ての会合を図らう」と、持ち寄った古物について自由に語り合う場として第1回目を1896(明治29)年に開催、当初は「集古懇話会」と呼ばれていました。
第1・2回は石器や土器といった考古学的な資料の出品がほとんどだったようですが、3回目から玩具博士と称された清水晴風の参加により玩具も登場し、集古会で対象となる古器物の幅がだんだんと広がっていきます。1909(明治42)年には、坪井、清水ほか人形玩具を愛好するメンバーで「大供会」という知識を交換する集まりを開催するまでになりました。少しの間、バーナード・リーチも参加しており、「大供会」を通じて交流の輪を広げています。ちなみに"大供"は「大きくなりすぎた子供」の意味で付けられたそうです。実は柳が民藝運動を展開する際、玩具の類は中心的には取り上げませんでしたが、1920年代以降の民藝運動の盛り上がりと同時期に、不思議と郷土玩具やこけしといったものの関心も高まり、ブームともいえる状況もありました。

集古会はこうして小グループや新たな交流の場をつくりながら、1944(昭和19)年まで続けられました。1906(明治39)年の会員名簿には柳田國男の名があり、1920(大正9)年からは南方熊楠が会誌にたびたび投稿するようになっています。集まりで直接顔を合わせたわけではなさそうですが、1910(明治43)年、柳田が『石神問答』を出した時、柳田は坪井から南方への献本を勧められたと回想しており、集古会がさまざまなネットワークのハブになっていたのかもしれません。
また、坪井は1887(明治20)年、上野公園で「風俗測定」という観測を行っています。道ゆく人々の姿から欧化の度合いを測れるのではないかと考えて、男女別にそれぞれ頭髪、衣服、履物の3項目に分けて記録し、街頭での観察を行ったのです。学会でも結果を発表し、上野以外の場所でも実施しました。今和次郎も「坪井正五郎博士は我国に於ける考現学以前に於ける考現学者であつたわけである」と語っています。
- カワルン
- こうやって民藝の中心人物が
つながっていったんだね
- クラシー
- おもちゃがきっかけなんだね、
面白いな~
