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柳田 國男(やなぎた くにお)
成城を拠点に据えた民俗学者
最後にご紹介するのは、日本民俗学の父とも呼ばれる柳田國男です。1875(明治8)年、兵庫県に生まれ、東京帝国大学卒業後に農商務省に入省。仕事上の調査や講演、旅行で訪れた日本各地の伝承文化に感銘を受け、1910年頃には本にまとめるようになります。日本の民俗学にとって記念的著述とされる『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』はこの頃の著作です。1919(大正8)年に退官し、翌年朝日新聞社の論説を担当してからはさらに調査研究を本格化させ、還暦を迎える1930年代に学問としての体系を確立しました。
柳田は1927(昭和2)年に北多摩郡砧村字喜多見、現在の世田谷区成城に新居を構えます。その理由は、富本憲吉と同じく子どもが成城学園に通っており、学園が東京都牛込区(現・新宿区)から成城に移転したからでした。客を迎え嬉々として談じようとする気持ちと地名をかけた「喜談書屋(きたんしょおく)」と名付けた自宅は、玄関ポーチのある洋風木骨造の二階建で、一階の書斎は壁面全体に書棚が備えられた大空間です。柳田が大学卒業後に旧飯田藩士の養子となっていることから、縁ある長野県飯田市に移築され、現在は飯田市美術博物館の付属施設「柳田國男館」として公開されています。
1934(昭和9)年にはこの自宅で行っていた講義とそこに集まっていたメンバーで「木曜会」を発足、「郷土生活研究所」として書斎を開放して全国的な調査を始めます。翌年には「民間伝承の会」を設立して民間の研究者を組織し、1947(昭和22)年には木曜会を発展的に解消、「民俗学研究所」としました。こうして喜談書屋は柳田晩年までの約30年間にわたって研究と教育の拠点となったのです。
初めての民俗学的な著作『後狩詞記』は宮崎の狩猟習俗、つまり山で狩りを行う人々の文化についてまとめたものでしたが、徐々に調査対象は日本列島に住む人々の多数を占める農民たち(「常民」)の生活に移ります。そして調査方法も記録や地誌をもとにするだけでなく、直接伝承を採集する方法も取り入れ、それらを各地にいる人々と協働して行うようになりました。
そうした指導的な取り組みを始める前、柳田がまだ官僚だった1913(大正2)年、神話学研究者の高木敏雄とともに、日本で最初の本格的な民俗研究の月刊雑誌『郷土研究』を創刊します。これは神道談話会で古事記について講演した高木が柳田と出会い、意気投合して新渡戸稲造主宰の「郷土会」に参加するようになって生まれたようです。
坪井との交流の延長から柳田が南方熊楠と文通を始めたのもちょうどこの頃。南方は粘菌の研究で知られる生物学者ですが、植物学、博物学、人類学、そして民俗学と幅広い分野で論考を重ねた在野の知の巨人です。二人は民俗学の視点の違いから疎遠になりますが、交わした議論はそれぞれの目指す立場を明確にするという実りをもたらしたといえます。
柳田が行ってきたのは、ごくありふれた日常の暮らしぶりや伝承から日本人の基層を明らかにすることで、研究を進めるのも日本各地で活動する在野の研究者の参加を重要視していたことがうかがえます。そういう意味で民藝運動とは深く通じるところがあるはずですが、1940(昭和15)年『月刊民藝』での対談で、柳田と柳宗悦はあまり共感することもなくすれ違ってしまうのでした。
「アウト・オブ・民藝相関図」に登場する人々のなかから、世田谷にゆかりのある人物を中心に4名をご紹介しましたが、いかがでしたか?
民藝運動とその周縁の活動や学問は、彼らの出会いや重なり、すれ違いによって重層的に発展してきました。現代の私たちも、普段の暮らしのなかの小さな出会いから何かが始まるかもしれません。
- カワルン
- いろんな人の偶然の出会いから生まれたのが民藝なのかも
- クラシー
- ぼくたちもたくさんの人とつながりたいね~
Supported By
文: 松田愛子
クラシー&カワルン イラストレーション: にしぼりみほこ