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三軒茶屋・大三角地帯展 ~ひらき、ひもとく記憶と記録

EVENT 4 「三角地帯のルーツを知る|闇市にまつわるトーク」 / 5 「三角地帯を歩く|古地図でめぐる三角地帯」

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戦後の闇市をルーツにもつディープなスポットとして知られる三軒茶屋の三角地帯。生活工房ギャラリーでは2026年1月から3月にかけて、「三軒茶屋・大三角地帯展」を開催し、「三軒茶屋の記憶と記録」を募る現在進行形のプロジェクトとして更新を重ねていきました。

このレポートでは、展覧会の関連イベントとして2月上旬に行われた二つのイベントを紹介します。

前半は、戦後の闇市やマーケットの歴史から三角地帯の成り立ちをひもといた「三角地帯のルーツを知る|闇市にまつわるトーク」。後半は、その歴史を踏まえながら、古地図や写真を手がかりに三角地帯と周辺を歩いた「三角地帯を歩く|古地図でめぐる三角地帯」です。両回とも、本展にも協力いただいた研究者・金谷匡高さんに加え、各回異なるゲストによる、三角地帯の成り立ちをテーマにしたイベントとなりました。

展覧会
会期:
2026年1月20日(火)~3月22日(日)
時間:
9:00~21:00 月曜休み(祝日は除く)
会場:
生活工房ギャラリー(3F)
イベント
三角地帯のルーツを知る|闇市にまつわるトーク
開催日:
2026年2月5日(木)
時間:
19:00~21:00
集合場所:
ワークショップルームB(キャロットタワー4F)
講師:
石榑督和(関西学院大学建築学部准教授、中央研究院臺灣史研究所訪問學人)、金谷匡高(法政大学江戸東京センター客員研究員、昭和女子大学歴史文化学科非常勤講師)
石榑督和(関西学院大学建築学部准教授、中央研究院臺灣史研究所訪問學人)
石榑督和(いしぐれ・まさかず)

関西学院大学建築学部准教授、中央研究院臺灣史研究所訪問學人。専門は建築歴史・意匠。1986年岐阜市生まれ。単著に『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』(鹿島出版会,2016/2020年日本建築学会著作賞)、近刊に『闇市と東京 Reimaging Tokyo through Black Markets』(創元社,2026年9月発売)。明治大学理工学部建築学科卒業。博士(工学)。

金谷匡高(法政大学江戸東京センター客員研究員、昭和女子大学歴史文化学科非常勤講師)
金谷匡高(かなや・まさたか)

法政大学江戸東京センター客員研究員、昭和女子大学歴史文化学科非常勤講師。1986年生まれ。2019年、法政大学デザイン工学研究科建築学専攻博士後期課程満期退学。法政大学デザイン工学部建築学科教務助手、世田谷区教育委員会学芸員などを経て、現職。都市史・建築史を専門とし、現在は世田谷の近代史を建築の視点から研究している。

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三角地帯のルーツを知る|闇市にまつわるトーク
三角地帯は、生活を支える「マーケット」だった

まず紹介するのは、2月5日に開催した「三角地帯のルーツを知る|闇市にまつわるトーク」。

三角地帯には、戦後の混乱期に生まれた「闇市」と、人々の生活を支える「マーケット」としての歴史が深く刻み込まれています。このトークでは、世田谷区の近代史に知見の深い研究者であり本展アドバイザーでもある金谷匡高さんと、東京の闇市研究の第一人者である石榑督和さんが登壇。地図や写真をひもときながら、このエリアの知られざるルーツを語り合いました。

現在台湾を拠点に活動する石榑さんは、オンラインでの参加となった
現在台湾を拠点に活動する石榑さんは、オンラインでの参加となった

最初に語り出したのは、東京の闇市研究の第一人者である石榑さん。

石榑さんによれば、「闇市」とは、第二次世界大戦前後の統制経済のもとで、価格規制や流通統制をすり抜けて商品取引をする露店を含む商店が集まった場のこと。終戦から5年後、1950(昭和25)年頃までに価格統制が解除されたことで闇市は事実上消滅しますが、その時期に立ち上がった建物は各地に長く残り続け、「戦後マーケット」と呼ばれる商業エリアへと変化していきます。

マーケットとは、闇市として形成された、長屋状の木造建物内にさまざまな商店が入居する「市場状」の建物であり、石榑さんは、1953(昭和28)年につくられた「新興市場地図」という資料をもとに、東京23区内280カ所に立ち上がったマーケットの実態を15年以上にわたって調査してきました。

三角地帯もまた、かつてそんな闇市およびマーケットが存在していたエリアなのです。

石榑督和石榑督和

1953(昭和28)年の地図を見ると、三角地帯の通り沿いには「果実」「小間物」(かんざしや櫛、おしろいなどの髪飾りや化粧品)「呉服」と記された小売店が立ち並んでいることが見て取れます。

「東マーケット」と書かれたエリアに目を向けてみると、大通りに近いほど「靴」「砥石」「蕎麦」など、いわゆる商店街にあるようなお店が多く、奥まったところに行くほど「酒」の字が増えていきます。同じエリア内でも、通りによって商業的な性格が全然違うわけですね。

これは三軒茶屋だけじゃなくて、東京中でよく見られるパターンです。大通り沿いはお客さんの滞在時間が短い小売店、奥まったところにはお客さんを長時間滞在させる飲み屋、というふうに、自然と使い分けられていたんです。

この地図上にある「仲見世」と記された場所は、現在の「エコー仲見世」の前身にあたると石榑さんはいいます。1937(昭和12)年の地図にも同じ名前が登場しており、戦前から戦後、そして現在へと、三角地帯の商業空間が脈々と引き継がれてきた様子が浮かび上がります。

1953年に発行された三角地帯周辺の「新興市場地図」(作成:都市製図社)が映し出されている
1953年に発行された三角地帯周辺の「新興市場地図」(作成:都市製図社)が映し出されている

古い地図を見ると、前述の「東マーケット」や「仲見世」以外にも、「文華デパート」や「大南マーケット」「世田谷市場」など、三軒茶屋周辺にたくさんのマーケットが存在していたことがわかります。

なぜ戦後、三軒茶屋にこれほど多くのマーケットが生まれたのでしょうか。石榑さんはその鍵として「建物疎開」という戦中期に日本全体で行われた事業を挙げました。

1944(昭和19)年から、木造建物が密集する市街地での火災延焼を防ぎ、また避難を円滑に行うため、東京都は大通りや線路沿い・河川沿いの建物を帯状に取り壊し、強制的に空き地をつくりました。これが「建物疎開」です。都心部では東京都が土地を一括で借り上げるか、借地して、膨大な数の木造建物が解体されたといいます。

石榑督和石榑督和

東京23区内にあった280カ所のマーケットのうち、約半数がこの建物疎開によって生まれた空き地の上に立っています。つまり闇市や、その後立ち上がった戦後マーケットは、戦中期に意図的につくられた空き地を基盤として生まれてきた空間なんです。

新宿駅東口にあった「和田組マーケット」(東京都建設局提供)。この場所もまた、闇市として建設されたマーケットだそう
新宿駅東口にあった「和田組マーケット」(東京都建設局提供)
この場所もまた、闇市として建設されたマーケットだそう

終戦直後の写真には、闇市形成のプロセスが生々しく記録されています。当時の上野や銀座を映した写真を見ると、空襲や疎開によって空地化した区画のへりに露店商が座り込み、かつて道だった場所を歩く通行人に向けて、さまざまな商品を販売している様子が見受けられます。

空襲を受けた土地に元の権利者が戻りバラック商店の再建を始めると、その露店商たちは車道を背にして反対側へ並び、再建された商店と向かい合うようにして歩道を密度ある商業空間にしていった。その後、マーケットと呼ばれる建物が建設されると、その中で店を構える形に、また闇市が変容していく。そんなプロセスが生じたのだと石榑さんは解説します。

終戦直後の上野駅周辺の様子。現在アメ横と呼ばれるエリア周辺
終戦直後の上野駅周辺の様子。現在アメ横と呼ばれるエリア周辺
画像出典:Old Tokyo. 「Tokyo “Black Markets”, 1945.」
https://www.oldtokyo.com/tokyo-black-market-1945/
(参照 2026-07-21)
石榑督和石榑督和

建物疎開は東京都では6回にわたって指定・実施され、全国では約270の都市で段階的に実施されました。東京都内で実施された建物疎開の資料を見ると、1次から4次までは南北の工業地域、それから下町や山手線沿線を中心に実施され、三軒茶屋を含む世田谷区内では実施されていないことがわかります。

第5次、第6次に関する印刷物は残念ながら見つかっていないものの、実施計画を記した手書きの資料が見つかっています。計画通りに実施されたのかについてはまだ明らかになっていないものの、その資料によれば大山街道沿いや世田谷線沿いの建物が帯状に建物疎開の対象とされ、取り壊された可能性が高い。

そうしてできた空き地の上に、文華デパートや仲見世をはじめとする複数のマーケットが建設され、闇市が形成されることになった。このことが、現在の「三角地帯」の土台になっていると考えられます。

クラシー・カワルン
クラシー
空き地から街が発展していく
歴史だね
カワルン
今の三軒茶屋の礎がわかってきたね

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