- 開催日:
- 2026年2月7日(土)
- 時間:
- 13:30~15:30
- 集合場所:
- 生活工房ギャラリー
- 講師:
- 男鹿芳則(前世田谷トラストまちづくり理事長)、金谷匡高(法政大学江戸東京研究センター客員研究員、昭和女子大学歴史文化学科非常勤講師)

世田谷区役所、(一財)世田谷トラストまちづくりの理事長を経て、世田谷マップDXプロジェクトチームを設立。現在開発したマップDX(地図アプリ)を使って世田谷区内のまち歩きを企画、運営してまち歩きの楽しさを広める活動を行っている。

法政大学江戸東京センター客員研究員、昭和女子大学歴史文化学科非常勤講師。1986年生まれ。2019年、法政大学デザイン工学研究科建築学専攻博士後期課程満期退学。法政大学デザイン工学部建築学科教務助手、世田谷区教育委員会学芸員などを経て、現職。都市史・建築史を専門とし、現在は世田谷の近代史を建築の視点から研究している。
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三角地帯を歩く | 古地図でめぐる三角地帯
かつて、茶沢通りはどのような場所だったのか
「三角地帯のルーツを知る|闇市にまつわるトーク」の2日後に行われた「三角地帯を歩く|古地図でめぐる三角地帯」は、三角地帯周辺の古地図を片手に、現在の街並みと過去の姿を重ねながら歩く街歩きイベントです。実際に街へ出て、歴史の痕跡を探していきます。
都心では珍しく雪がちらつく天候の中、地元の方や三軒茶屋に縁のある方など10名が参加。案内人を務めたのは、金谷匡高さんと、「世田谷マップDXプロジェクトチーム」の代表として独自開発の地図アプリをつかった街歩きイベントなどを企画・運営している男鹿芳則さんです。
生活工房でのガイダンスの後、さっそくスタートした街歩き。最初に訪れたのは、茶沢通りです。一行が足を止めたのは、お惣菜を販売する「福のから 三軒茶屋店」の目の前。今でこそ多様な商店が並び、多くの人で賑わう茶沢通りですが、「明治時代中期まで、このあたり一体は畑だった」と金谷さん。
続けて、1961(昭和36)年に撮影された写真を示しながら、戦前から戦後にかけての茶沢通りの様子を解説しました。
茶沢通りは終戦直後に開通しました。この写真を見ると、「東栄メリヤス」という看板がかかった建物があります。この建物が、現在「福のから」が入居している建物です。外装は変わっていますが、建物の形は変わっておらず、当時のまま残っていることがわかりますね。
また、男鹿さんは独自に開発した、過去の地図と現在の地図を重ね合わせられるアプリを用いて1887(明治20)年当時の地図を示しながら、このエリアの地形を解説しました。
その後、訪れたのは茶沢通りの中ほどから、淡島通りにかけて伸びる太子堂商店街を少し脇道に入った場所にある「下の谷商店街」。1923(大正12)年の関東大震災以降、都心部から移り住んできた人たちが増えたことで商売をする店が集まり商店街が形成されました。
現在はシャッターが目立つエリアではありますが、金谷さんいわく「かつては三軒茶屋周辺で最も賑わっていた商店街」だったそう。参加者からは「小さなころ、この商店街で遊んでいた」と昔を懐かしむ声があがっていました。
下の谷商店街の後は「三軒茶屋ふれあい広場」へ。
この場所には、かつて「大南マーケット」と「世田谷市場」という2つのマーケット(路地に沿って長屋状の木造建物を建て、そのなかに商店を並べた市場状の建物)があったのだそう。1955(昭和30)年当時の写真を見ながら、マーケットの様子について話を聞きます。
茶沢通り沿いに面しているエリアには、さまざまな商店が入っていることが見て取れますが、裏側には住宅があることがわかります。マーケットといいながらも、昭和30年時点ではすでに住宅地に変わりつつあったのです。
しかし、今では地図とは違い、大きなビルになっています。
その背景にあるのは、「露店収容建築」の増加です。1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックの前後、マーケットなどの露店を集約することを目的に、たくさんのビルが建築されました。新橋にあるニュー新橋ビルもその一例ですね。そうして数多くの露店がビル内に移転し、露店のオーナーたちはビル内の一区画の権利を所有することになりました。
すぐそこにあるビルも、そんな露店収容建築の一つではないか、と可能性が考えられます。登記簿を見ていないので定かではありませんが、さまざまな方々の共同名義になっているのではないかと想定できます。
- クラシー
- 歴史を考えながら歩くと、
街の見方が変わるね
- カワルン
- 時代時代に合わせて、
街は変化するんだね

