「モリタさん。報告書の進捗はどうですか」
チェアをゆっくりと回しながらこちらを直視する依頼人・キタガワタカヨシがそこにいた。
依頼人=キタガワタカヨシ
「ああ……わかっていますよ」
右手を軽く握りしめる。
掌のなか、じっとりとした汗が皮膚をつたう。
いつもそうだ。
キタガワタカヨシの目がこちらを向くと。いつもそうだ。
2017年8月5日(土)曇り
『みっける365日』第4回ゼミ
気温31℃。うなるような暑さと湿気がめぐる世田谷・三軒茶屋。
そびえるキャロットタワーの内部にも、冷房では抑えきれない熱気があった。
先月の「占い」イベントからほどなく開催された第4回のゼミである。
サポート・アーティストから課せられた宿題の見せあいっこや、
夏ならではの近況報告で、室温をぐんと押し上げあうようだった。
……と。
会場に入って右奥に設置されたタノタイガゼミには、アーティストの彼自身が居ない。
主宰のキタガワと生活工房のサトウ氏がネット回線と格闘し、ディスプレイを覗きこむ。
おりしも季節は「芸術の夏」。
本ゼミのサポート・アーティストたちは、国内・海外の芸術祭に参加しながら
Skypeを通じてゼミ生たちに稽古をつけることがあった。
その日のタノタイガは、北海道・札幌市資料館の敷地にいた。
タノタイガゼミ
ぽーん、とSkype通信のマークが躍る。
幾度かつながり、切断され、こちらも慌てる。
ようやく現れたのが、おなじみ「先生っぽい服装」の、三つ揃い&磨き抜かれた黒革靴、
……ではなく。
野球帽に白手拭いをぶら下げ、ひっきりなしに汗を拭く、珍しい姿のタノタイガだった。
札幌国際芸術祭のオープン前日。
出展予定のタノタイガは、目のまわるスケジュールだったろう。
ディスプレイの「向こう側」にいるわたしたちには、伝えてもらえたものがある。
遠き美術家がいつもと違うラフな服装で喉を鳴らし、「いや~~」と汗を拭く横顔、
こまめに周囲に気をはらい、現地のサポーターやスタッフのため切断/再開する回線。
芸術祭前日の緊張感と、こちら世田谷のゼミ生たちへの配慮、
アーティスト自身のなかで巻き起こっているのだろう、ひっきりなしの思考。ざわつく音声。
そうしたものたちが混然と、るつぼ的に、しかし平面的に、ディスプレイされていた。
残念なことにその日のタノタイガゼミは全員が欠席となったため、
ときおり繋ぎなおされるSkype画面に、キタガワタカヨシが声をかけていく。
Skypeがつながるごとに、芸術祭前日の具体や設営、展示内容、動きが開陳される。
タノタイガの「人柄」。
それは美術家のなかに息づくやさしさであり、教師性であり、汗をかく風貌だった。
青山悟ゼミ
いっぽう「現代美術の基礎を教授する」ことをゼミの根幹に据える青山悟ゼミは、
自身も出展しているヨコハマトリエンナーレ2017(以下、ヨコトリ)を解題。
ホワイトボードをがんがん書き込み、消し、また書き込みながらの「弾幕座学」である。
聞き入るゼミ生たちも、2017年夏現在形の現代芸術を、当事者として語る青山の、
俯瞰! 実感! 時空の連続性に注目する歴史観!
ほとばしるような言葉の渦へのアワアワで、メモに食らいついていたのが印象的だった。
青山悟は語る。
本年ヨコトリの根幹にあるコンセプトは「接続と孤立」。
ソーシャル・エンゲージド、つまり社会的なつながり方の現在形について問いかけるもの。
しかし、と青山は続ける。
「いや今はむしろ、『個人』だろ」と。
グローバリゼーションを自明化した、現代日本的フレームから脱出するべき時が来た、と。
本展がテーマの一部に組み込んだ、「ガラパゴス」という単語には、
今回ポジティブな印象が追加されていると感じる、という。
いわゆるグローバル・スタンダードに乗り遅れた日本だから、
逆張り的にアンチ・グローバリゼーションに舵を切るのかと思っていた、と。
しかし現実には今回のヨコトリも、グローバリゼーションを自明化して始まっている、と。
こうした現場に出展者として関わってきた青山は、
常より思考/制作と繰り返してきたその実感を、「みっける」に持ち込むことにした。
具体的には宿題として「ゼミ生の個人史」を編ませ、発表をさせたのである。
青山の思うポスト・グローバリゼーションのひとつの手段。
それが、「個人史」だったのだ。
キュンチョメゼミ
「みっける」のコンセプトをサポート・アーティスト自らの解釈、
そして集まるゼミ生たちの解釈をもち、縦横無尽に天翔けるキュンチョメゼミ。
この日も各自の制作を持ち寄って、大テーブルで講評会。
テーブルの隅から隅へと移動しながら指をつけて感想するキュンチョメと、
眼を見て呼応して笑声をあげるゼミ生たち。
すん、と鋭角的な空気になって教授をうけるゼミ生たち。
頬をぴくつかせたり、笑ったり、オラついたり昂ったり静かに問い返したり。
キュンチョメゼミは、船を漕ぐように進んでいく。
探偵のような「観るもの」にとっても、パフォーマンスとして刺さるのだ。
ましてや、当事者のゼミ生にとっては──。
回を重ねるごとに素顔感を増し、関係性を構築していく空間そのものが、
それぞれ無二のものと受け止められているのではないか。そんな気がした。
北川貴好ゼミ
なごやかに始まる北川ゼミは、前回から引きつづいた、展覧会のプランニング。
具体的には展覧会のブース最後に設置するインスタレーションについて討議している。
「インスタレーションってなんですか」という、重要とおぼしき質問があがったのだ。
うなずいた北川は応える。
日本語では「仮に設置する」という意味なんです。
……仮に設置。メモをとるゼミ生たち。
空間芸術をその手法のひとつにも数える現代作家、北川からの解釈が連なっていく。
そう、こんなふうに。
現代美術の分野では、美術館のような「空間」に、作品を「仮置き」するしかない。
たとえばこのゼミでは展覧会で、展示空間の中に「部屋」を作ろうとしているけれど、
展覧会のために作る「部屋」はその場限りのものだから、会期終了後は壊すしかない。
平面の絵画作品のように、壁から外してうまいこと所蔵できるものもあるだろうけど、
仮に置いた「部屋」そのものは、持ち帰ることができないんだよね。
だから「仮設」。展示空間に合わせたその場限りが「インスタレーション」。
建物や空間に設置されているような作品が「パブリック・アート」で、
恒常的に置かれることが多い。
そのなかでも、依頼された美術家が、建築の構造物内外に場所に合わせて
新作を制作するものなどは、「コミッション・ワーク」と呼ばれるね。
……ここまで一気に説明をした北川に、おずおずとゼミ生から手が挙がる。
「抽象的で難しいです。結局、インスタレーションってなんなのか、わかんないです」と。
北川はこう応える。
簡単に言っちゃうとね。
インスタレーションってのは。
「置いたら作品ですよ」ってことです。
──めちゃめちゃ分かりやすくなった!! というか、ひと言で説明できてしまった!!
納得して笑うゼミ生たちの隣で、わたしは少しずっこける。
師としての北川の魅力が、ここにもある。
探偵の思考── 北川貴好の魅力とは?
定義を問われたり根幹にかかわる答えを求められると、
うーーんと長考してから、美術界での正解(のように聞こえる)な文章を語りかけてくれる。
なるほど、と頭で中身を組み立てる。
でもまだ実は、よく分からない。
「それって結局、北川さんにとってどういうことなんですか?」
と個人にさらに問うてみると、ものすご~く簡素な、分かりやすい言葉がポンと出てくる。
質問した側がずっこけて笑ってしまうような、そんな素朴な声がある。
外見はこの際関係なくて、北川の頭の中身は、おびただしい計算式だらけの構造建築と
取り組んでいく、空間芸術/建築の素地でいっぱいなのだ。
いっぱい詰まった計算式のその上に、鏡餅のミカンみたいに、ずっこけ感が乗っている。
……おや。
わたしが目前に眺めたのは、依頼人・キタガワタカヨシではない、と気付いた。
のびやかに全ゼミを牽引する、コンダクターにして美術家の「北川貴好」がそこにいた。
では、わたしがゾクゾクと畏れ、おしいだく依頼人・キタガワタカヨシとは……
ほんとうに……実在するのだろうか……?
探偵職のルーペが揺らぐ。
四者四様の熱をはらんでいくゼミ活動とはまた別の場所で。
探偵のわたしは、視えたものと感じたものの食い違いや、違和感に。
ついに向き合いはじめることとなる。
それは。
「美術」の現場に立ち入ってしまったひとりの探偵……いや、ライターが、
動揺と夢うつつを乗り越えていく、調査報告にもなるだろう───。
To be continued……
※ このお話は実話を基にしたフィクションです。
【著者略歴】
森田幸江(もりたゆきえ)
アメリカ大使館ライター、学芸単行本、カルチャー系雑誌編集、電子書籍シリーズ編集などに従事するフリーランス著述者/編集者。
コミック原作、小説、取材構成などの打席にも立つ。
1979年生まれ、日本女子大学文学部卒、右投げ右打ち、贔屓球団は広島東洋カープ(年間40試合を現地観戦)。
「みっける365日」展──アーティストと探す「人生の1%」
http://www.setagaya-ldc.net/program/393/