03
縄文時代に着目し、青森へ
7月の末に、青森、三沢から八戸を訪ねました。始めに、八戸の博物館で魅了されたのは、猪や鹿の骨で作られた精巧な針と、甕棺(かめかん)に施されている文様でした。縄をそのまま貼りつけたように盛り上げた非常に細かい文様から、弔う人の深い愛や優しさのようなものが伝わってきました。是川縄文館では、竹を細かく裂いて編んだものに漆を塗る、籃胎漆器というものに出会い、感動を覚えました。次に、十和田湖を経て弘前へ。この地域は縄文の遺跡が多く、広い平坦な湿地帯で小さな湖が点在し、堆積してできた地域と考えられます。つがる市森田歴史民俗資料館で気になったのも、縄のように盛り上げた文様の土器です。縄で組んだ籠を、どうしたら土でつくれるのか試行錯誤したんじゃないか、と思うほど、竹の先で突いてつくられた文様は本当にロープで編んだ籠のような表情になるし、縄目の模様も全面に施されていて強い印象を残します。また、程近い地域の、入組文の描かれたお皿も忘れられません。これは立体になっていく感じが面白いと思いました。
続いて青森の上のほう、三内丸山遺跡に向かいました。ここは最大級の集落跡で、大型竪穴建物跡も見つかっています。大型の建物をつくるには、縄紐の技術がとても重要だったはずです。また、寒い冬に空気を逃がさない衣服をつくることができた針は人間にとって大発明だと言われています。また、ここで気になった縄文早期の土器というのもバスケットそっくりです。時代は後に、弥生時代へと向かいますが、弥生土器になると文様は次第に減ります。ただし、銅鐸のような祭器には残っていて、全面に文様が入れられています。三角形など直線が目立つようになり、「魔除け」の意味で扱われていたのではないかと考えられているようです。また、縄文からの連続性を感じる波のような流線形の文様も刻まれています。
縄文ってすごく昔のことなのに、
そういうお話をきくと、感情まで伝わってくるみたい。
いつの時代もひとの想いは変わらないのかもね。
04
装飾古墳を訪ね、九州へ
9月には、装飾古墳の調査を目的に九州を旅しました。装飾古墳は、5世紀から8世紀頃までにつくられた、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のある古墳の総称です。北部九州に多く、当時この地域は中国や朝鮮半島との交流が盛んに行われていました。最初に行った竹原古墳の壁画には、波頭が描かれていて、海、つまり交易が大事にされたことがうかがえます。
福岡の王塚装飾古墳館では、鮮やかな色彩の壁画が石室内全面に施されていました。死後の世界が不思議なまでに明るく描かれているのを目の当たりにして、心の中が落ち着くというより、むしろざわめくような感覚を覚えました。佐賀の博物館では、大きな甕棺に、ベンガラが施されているものが特に印象に残りました。日本の代表的な装飾古墳の一つ、熊本のチブサン古墳では、石棺の壁画には人間や同心円、そして三角形が多用されています。
- クラシー
- 装飾古墳の壁画の中にぼくらとよく似た人物をみつけたよ!
- カワルン
- もしや、ぼくらの先祖かも?
05
弥生の文様を求め、近江・野洲・琵琶へ
10月には、弥生時代の文様を求め、銅鐸が多く出土している滋賀県の近江から野洲、琵琶湖周辺を旅しました。弥生時代には、朝鮮半島から稲作、金属品、紡織などの文化が伝来しました。土器への施文は減る中で、祭器として鋳造した銅鐸には、渦や流水、S字や三角、または日常的な狩りの様子や動物の文様が残されています。ここでも大陸・朝鮮半島からの人の渡来により、新たな文様文化が育まれました。