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世田谷クロニクル1936-83

 

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トーク「思い出を食べる」

あなたの思い出の食べ物はなんですか。新聞に投稿された戦争中の女性の声を編みなおした『戦争とおはぎとグリンピース』(2016)、3.11直後の食べ物の記録を市民から集める活動「3月12日 はじまりのごはん」。食と記憶をめぐって、登壇を予定していた末崎光裕さんと佐藤正実さんから寄稿いただきました。

寄稿文

食卓でしたためられた覚悟

昭和30年代の女性投稿欄から

末崎光裕

昭和35(1960)年4月12日。福岡を拠点とする西日本新聞に、「おはぎ」という題の投稿が掲載された。年齢は書かれていない。福岡市に住む主婦で、北村さんという女性が書いたものだ。
息子さんが召集され、明日出発するという日に、貴重品の砂糖と小豆をなんとか手に入れてこしらえた好物のおはぎ。「うまい、うまい」を連発した彼は、その後の戦争激化で南方に送られ、音信が絶えてしまった。終戦を迎え北村さんは、帰国船が着くたびにおはぎを抱えて港に迎えに行くのだが、いくら待てども船に彼の姿はない。消息を知るという人が見つかり広島まで訪ねると、特攻に志願し、散ったのだという。その人は言った。「日本を発つことになった日、Kくんの好きなおはぎが出たんですが、さすがにあの時はのどを通らないようでした」と。

「婦人の日日の明るい経験や意見、主張や真実の声をほしい」と昭和29年に開設されたのが、女性だけの投稿欄「紅皿」である。昭和29年は、高度経済成長期の幕開けともいわれた年。映画「ローマの休日」や「ゴジラ」などが公開され、電気冷蔵庫・洗濯機・掃除機が「三種の神器」と呼ばれ始めていた。社会はにぎやかになり、街は大きく豊かになったのだと、昭和40年代生まれの私は聞いているし、繰り返し映像で見てきた。

果たして実際の生活はどうだったのか、と疑問が膨らんだのは2015年のことだ。戦後70年の節目を迎え、テレビや新聞では安全保障の議論や、いまだ戦闘が続いている地域の惨状が繰り返し報じられていた。国際問題としてではなく、評論家の言葉ではなく、語り部の方々の声ともちょっと違う、「ただの人」の声を聞きたいと思ったのだ。ちょうどその頃、児童文学作家の村中李衣さんと出会った。彼女は全国を講演で回る際、参加者に「昭和20年の8月15日、あなたはどこで何をしていましたか」と尋ね、メモを取っていたのである。田舎に行くほど8月15日の境は曖昧で、「それどころじゃなかった。その日家族が何を食べられるか、生きるために必死だった」という声がいくつも残っている。

福岡で編集プロダクションを営んでいた私は、西日本新聞社出版部と仕事をする中で、貴重な生活史である新聞アーカイブを活用できないかと当時の部長と企画を立てていた。縁あって入社しデータベースを閲覧する権利を得た私は、「大きな出来事」の陰に隠れている小さな声に興味を惹かれていた。 2015年、私たちは「戦争」をテーマに投稿を掘ってみようと動き出したのだった。
開設以来ほぼ毎日掲載されている投稿欄「紅皿」。まずは、マイクロフィルムをスキャンしたデータベースから、欄を見つけ出すこと、そして1本1本〝拾い上げる〟ようにプリントアウトした(新人女性部員の努力による)。初期の10年分、合計3000本強の投稿から戦争・戦後に触れたものをピックアップすると、約300本が残った。その中で最も心を奪われたのが、冒頭の「おはぎ」という投稿だった。
戦争が遠い世界の事のように感じていたという部員は、このように記している。

「紅皿に寄せられた声は、私の目の前に迫ってきたのです。配給された古い鍋に残る母の思い出、貧しい暮らしの中で見つけたささやかな喜び…。描かれていたのは、当たり前の日常を送るという幸せを諦めず、理不尽な現実に向き合う女性の姿。驚いたことに、当時は10代、20代の投稿者も多く、その等身大の言葉は、時代を隔てて生きる同世代の私の胸を打ちました。そこには同性としてあこがれるおおらかさや強さもありました。私は彼女たちについて、もっと知りたいと思うようになりました」

厳選した42本の投稿を綴じたのが、『婦人の新聞投稿欄「紅皿」集 戦争とおはぎとグリンピース』という本だ。本のオビに私たちは、最も大きな字でこう書いた。

どんなときも 絶望しない─。

「一家にとって生命の糧であったじゃがいもの恵みを永久に忘れないために。あの苦しみと悲しみとが、二度とこの世に起こらないよう、毎年私はじゃがいもを植える」(昭和34年)。「死ぬ前にいま一度、ヨウカンをおなかいっぱい食べたい」とつぶやいた母(昭和31年)。配給されたなべを生涯手放さず、産湯を沸かしイモを煮て「母が女の人生をともにしたこの鍋」を、決して捨てないと決めた私(昭和37年)。
投稿を一つ一つ拾い上げ、「ただの女性たち」がペンを握りしめている情景を思い浮かべながら、考えた。ささやかな声こそ、人々の確かな声として、聞き過ごしてはならないのではないかと。
食べること、食べさせることは、希望を持つということ、明日も生きぬくということ。わずか600字の中に、彼女たちの覚悟が込められている。

末崎光裕(すえざき みつひろ)

1971年福岡県生まれ。雑誌社を経て独立。99年から編集プロダクションを営み、雑誌、書籍の編集・デザインを中心に活動。2011年から現職の西日本新聞社出版グループ。『ペコロスの母に会いに行く』(第42 回日本漫画家協会賞優秀賞)、『戦争とおはぎとグリンピース』、『雲のうえ 一号から五号』、『大分県のしいたけ料理の本』、『本屋がなくなったら、困るじゃないか』などを手がける。フリーマガジン『SとN』では編集・執筆を担当。

寄稿文

食と記憶

3月12日はじまりのごはん ― 震災直後の食べ物の記録を市民から集める活動

佐藤正実

2011年3月12日 震災翌日の朝食(提供/佐藤寛法さん)

「3月12日はじまりのごはん-いつ、どこで、なにたべた?-」は、東日本大震災を「食」から考えてみようという試みで、せんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」との協同で、2014年からスタートしました。
具体的には、震災後に市民から提供していただいた震災写真の中から「食べ物」に関する写真を72枚セレクトし、来場者ご自身により【3.11後、初めて食べたものは?それはいつどこで?】を思い出してもらい、付せん紙に書き出す、という市民参加型のイベントです。

私たちは2012年5月から「3.11定点観測写真アーカイブ 公開サロン」を開催しており、そこでのやりとりがきっかけで、「3月12日はじまりのごはん」は生まれました。
第9回目(2013年6月1日)の公開サロンにおいて、参加者に「震災の翌日は何を食べましたか?」という問いかけをしたところ、「インスタントラーメンを50食ほど備蓄していたし、キャンプ用品があったのでしばらくは大丈夫だった」、「レトルト食品を備蓄していたが水がなかったので苦労した」、「各家々にあった野菜を町内会長宅に持ち寄り温かいスープを食べてほっとした」、「石油ストーブが使えたので冷蔵庫にあった野菜を煮て食べた」、「カロリーメイトを少しずつ食べて過ごした」などが、次々と語られ始めたのです。

第9回目「3.11定点観測写真アーカイブ 公開サロン」(2013年6月1日)

これらの話。例えば、保存食の話からは、災害時に家庭や学校、職場で準備しておいたものは何なのかが分かり、炊き出しの話からは、町内会や商店街の災害時の連携やコミュニティまでも推測することができます。また非常時に役に立ったもの・立たなかったものも見えてきます。
たった1枚の写真から、何十というそれぞれの人の実体験を引き出し、さらに、食べ物に付随して現れる様々な記憶から、当時の生活全般の様子をうかがい知ることができる。「食」により様々な記憶が誘発され、いままで遠慮し話せなかったことも「食」により語ることができる、と気付かされました。
写真から想起された自身の体験を付せん紙に書きこみアウトプットする。そして、「食」を通じて個々の小さな出来事を拾い集める。それが「3月12日はじまりのごはん」の発想です。あの大震災を「自分事」として再生してもらうためには、と問い続けていた私たちの、ひとつの答えとなりました。

本来のアーカイブの主旨からすれば、撮った本人からのヒアリング情報をもとに記録化することが最も効率がよく、極端な言い方をすれば、“キャプションを一本化していく作業”を通し、その写真が何を物語るのかを探っていきます。しかし、「3月12日はじまりのごはん」は、キャプションを絞り込むのではなく、逆に複数化する作業をめざしました。撮影者の意図により、目の前に広がる空間の中から一部分を切り取られるのが写真ですが、そこに敢えて、複数の人の体験や記憶を拾い集め、重ね加えていくことで、汎用性を持たせるという試みです。

2011年3月11日 震災当日の夕食
(提供/関口怜子さん)
2011年3月13日 炊き出しのごはんを食べる子ども
(提供/佐藤正実)
2011年4月16日
発災から1ヶ月、ガスが開栓し飲食店が再開
(提供/柳谷理沙さん)
2011年3月15日 仙台朝市で食材を買い求める人々
(提供/篠原治樹さん)

東日本大震災の中での「生活」にスポットを当てたことで、市民視点にはどう映ったのか。そして展示写真と来場者の経験がどのようにリンクしていくのかー。展示している72枚を、順を追い見ていくことで、ゆっくりと記憶を想起してもらおう、というのが最も重要なポイントです。
その意味で言えば、「3月12日はじまりのごはん」は、大手メディアが伝えた地震被災の大きさと対極にある、震災の中における市民の生活ぶりを伝えるツール、あるいは生活を知るリサーチャーとなっていくのかもしれません。

佐藤正実(さとう まさみ)

3.11オモイデアーカイブ 代表。3.11オモイデアーカイブとは、「人々の想い出」を媒介として、まちの文化や営みを知る・伝える企画を運営する市民団体。津波被災した仙台市沿岸を巡り交流を図る「3.11オモイデツアー」、震災前と今を定点撮影する「3.11 定点撮影プロジェクト」などに取り組んでいる。2014 年から食べ物を通して震災体験を語り合う「3 月12 日はじまりのごはん」をせんだいメディアテークと共催。「Library of theYear 2018」優秀賞。

カワルン
食は生活と密着しているから、そこから導かれる記憶は当時の状況、気持ちを表してくれるね。
クラシー
次ページは、戦後ひろがったアマチュア映画から蘇る歴史についてのコラムだよ。