『アウト・オブ・民藝』の著者・軸原ヨウスケと中村裕太が、柳宗悦らの民藝運動の黎明期と、今日のライフスタイルとしての「MINGEI」との食い合わせを、「民」という文字から芋蔓る展覧会を開催しました。「民」の感覚に惹かれて活動した人々の言葉や著作、交流の記録を年表でたどりながら、知らなかったレコードを掘るように探し、閲覧できる設えの展示です。会場で配布していた人物相関図のたくさんの登場人物のなかから、世田谷にゆかりのある人を中心にご紹介します。4名の人物をきっかけに民藝の魅力を掘り起こしてみませんか。
- 会期:
- 2024年4月29日(月)~8月25日(日)
- 時間:
- 9:00~21:00 祝休日を除く月曜休み
- 会場:
- 生活工房ギャラリー
- カワルン
- どんな人がつながっているのかな?
- クラシー
- 民藝の「民」のこともわかるかな?
01
富本 憲吉(とみもと けんきち)
祖師谷に住居兼工場を構えた陶芸家
最初にご紹介するのは明治から昭和にかけて活躍した陶芸家の富本憲吉です。1886(明治19)年、奈良県の法隆寺の近くに生まれ、東京美術学校図案科で建築を専攻した富本は、在学中からウィリアム・モリスの工芸思想に高い関心を持ち、卒業直前にロンドンに私費留学して室内装飾を学びますが、帰国後の東京でバーナード・リーチと出会い、工芸のなかでも陶芸に熱中するようになりました。 ほどなくして故郷にアトリエを構えて楽焼などさまざまな工芸の作品制作を始め、数年後には窯を築き本格的に作陶に取り組みます。そして1926(大正15)年には東京に移住。翌々年に千歳村祖師谷(現・世田谷区上祖師谷)の初窯を成功させ、この祖師谷の住居と工場を拠点に、工芸界を牽引する存在として活躍しました。 戦後は京都に移り、京都市立美術大学教授として教鞭をとりながら精力的な活動を続け、重要無形文化財「色絵磁器」保持者(人間国宝)に認定。1963(昭和38)年に77歳でこの世を去りました。
東京時代の拠点に祖師谷が選ばれたのは、子どもたちの学校(開校して間もない成城学園)が近いという理由でしたが、当時は民家も少なく、雑木林と畑が広がるこの地は窯場としても適していました。 周囲を田畑に囲まれた小高い丘の上に築かれた1階平屋建ての住居は富本自ら設計し、広い客間を使って展示を行うなど来客も多く、芸術家のサロンのような雰囲気だったといいます。規模を広げた工場と窯場を備えていたため、大作をたくさんつくることが可能になりました。 祖師谷では轆轤(ろくろ)や絵付などの工程をすべて自身で行う一点ものを制作し、冬は地方の窯業地をめぐりながら量産を試み「万民のための安価な陶器」の実現に没頭しました。
富本が関心を抱いていたウィリアム・モリスは、工業化が進む19世紀のイギリスで、手仕事の尊さを見直し、生活と芸術を統一することをめざす「アーツ・アンド・クラフツ運動」を主導した人物です。富本はイギリスから帰国した後の1912(明治45)年に「ウイリアム・モリスの話」と題した評伝を『美術新報』に上下回にわたって連載し、日本でいち早くモリスの美術家としての側面を紹介しています。 その頃、民衆の暮らしの中にある美を見出し、その価値を人々に紹介しようと「民藝(民衆的工藝)」という言葉をつくって日本で活動を始めた中心人物が柳宗悦です。柳は文芸雑誌『白樺』の制作を通じてリーチと知り合い、その通訳を務めていた富本とも親しくなり、これまでとは違った陶芸をめざす二人の価値観に大きく影響を受けて『陶磁器の美』を上梓しました。 富本もリーチも、柳の朝鮮旅行に同行したことがありますが、そもそも柳の朝鮮への関心をかきたてたのは、1912年の「拓殖博覧会」で富本とリーチが朝鮮陶磁器に感銘を受けたことを聞いたからでした。のちに工芸の定義が細分化していくなかで、富本は民藝運動から距離を置くのでした。
- カワルン
- 民藝のはじまりに関わった人なんだね
- クラシー
- 世田谷の祖師谷もね!